移りゆく社会

今日を生きられるかという戦争の時代が終わりを告げて100年弱が経とうとしている。人類は時代に合うようにその性格を厳選してきた。分かりやすく結果が出てきた今こそ、次の社会の在り方を考える必要がある。

国内社会の存続には、もちろん経済成長がついて回る。この時代に鎖国するわけにもいかないし、どうしても国外からも必要とされるサービスを排出することが求められている。

高度経済成長期から今までの遍歴を振り返った時、私の第一感としては、失敗を恐れないアメリカの風土が功を奏し、時代を代表する企業をいくつも立ち上げ、世界もそれに引っ張られるように成長していったという印象です。もちろんそれ以外の素晴らしい独自サービスはありますが。

終身雇用制の存続が危ぶまれてから久しい。私が小学生の頃から既に、少子高齢化と併せて、来る課題として教育を受けた記憶がある。一人当たりGDPは他国と比べて遜色ないが、どうにも閉塞感が漂っている。この衰退感や居心地の悪さの原因は、ひとえに日本国内の消費者間で回せる資金が劇的に少ないことにあると思う。互いに支援したい人がいたとしても、自分一人さえ食わせていけるか不安で、結婚すらできない。

新しいサービスをどんどん生み出し、日本国内の投資家や海外からも資金を引っ張って来れればと誰もが夢見ている。先行投資の早さはアメリカの右に出る者はいない。今や当たり前となったesportsの発展は、アメリカのスポンサーの参入がきっかけだった。私のように、将来のことは考えるけどずっと様子見をしているだけでは好機を逃してしまう。

これからは少数の団体が自らのサービスを世界に向けて発信するということが頻発すると思う。クラウドファンディングで資金を募ったりするのか、資金調達の方法は様々現れると思うが。

私は次の社会として農業を主体とする社会を予想する。今日本の農業を取り巻く状況は良いとは言えない。田畑のある場所に出掛けて行っても、まず若者を見ない。食料の自給率が低い日本で、食料を生み出す産業の元気が無いのでは、まず立ち行かない。これではますます輸入頼みになって物価が上がるばかりだ。

農業をしたいという人はきっといるはずだ。素人なのでこれ以上考えが浮かばない。この文章も頭からずっと素人考えだけど。

刺激受容量の変化について

人の五感への刺激の強弱をどのように認識するかについては、1950年頃からすでに理論を打ち立てられていた。私が調べたのはヴェーバーの法則とスティーブンスの法則という2つで、細かい理論の前提や正しさは抜きにして、どのような法則なのかまとめると、五感への刺激に対する反応は Clogx  や Cx^(1/3) といった無理関数に近似できるというものだ。これらの関数は序盤に大きく上がるが、xの値を大きくしていくと伸びは緩やかになる。(ただしxの極限をとると何らかの値には収束せず、発散するというのが気になる。また、記憶を覚えるとは物理的にどう説明できるかという点も気になる。)

 

重要なのは小さな刺激になればなるほど、敏感に大小を判別できるという点だ。

 

・昔ほどゲームが楽しめない

 

全て過去の経験と照らし合わせて、あの時の感動は越えられないという感覚は、経験を重ねれば重ねるほど起こるものだと思う。この呪縛から抜け出すようなより強大な刺激を求める人もいるが、残念ながらそれはもう見つからない。過去の経験が美化されるのは、その経験が初回だったことに依る点が大きい。

ヴィルヘルム・マイスターの修業時代より

ゲーテ著 ヴィルヘルム・マイスターの修業時代

上巻

(上流市民を振り返って)生まれながらの財産は、どれほど快適さと気楽さを与えてくれることか。(中略)この世のものの価値と無価値とを早くから見分けることができるのは、それらのものを幼い時から享受できる人であり、精神を早くから必須なもの、有用なもの、真実なものに向けることができるのは、多くの過誤を、新たな人生を始める力のまだある年齢において自得できる人なのだ。

下巻

(多くの子を引き取るナターリエの言葉)人間というものは、いまあるとおりにだけ受け取ると、その人をいっそう悪くする。その人たちがいますでに、その人たちが将来あるべき姿をとっているものとして扱うと、その人たちを導いて行こうと思っているところへ連れていくことができるのです。

記憶と個性の謎

後天的な障害によって短期記憶ができなくなってしまった方のドキュメンタリーを観た。

 

新しい物事を記憶することができなくなってしまったようだが、過去の記憶はしっかり持っているように見える。言語障害もないし、受け答えもはっきりしている。そして何といっても表情豊かで、彼、彼女のパーソナリティを感じさせる。

 

別の事例を調べてみると、発症の前後で性格が変わったというものもあった。なくなった記憶が与えたと思われる影響がなくなり、以前の性格に戻ったという。

 

記憶の定着について言えば、何回も繰り返すことで長期記憶として、記憶できるようになるらしい。

長期記憶はニューロンが決まったネットワークを繰り返しなぞることで形成される。

 

繰り返し反復作業をする。繰り返し思考をする。そうすることで記憶を定着させる。

同じように、怒ったり笑ったりを何度も繰り返すうちに、パターンを記憶に残す。

記憶の定着とパーソナリティ形成はある程度関係しているのかもしれない。

 

幼少期からの脳の発達によって、知らず知らずのうちに自らの感情や思考を処理する方法を記憶しているのかもしれない。ただそうなると、同じ環境で育った方々に十色の性格が現れるのは別の深い原因がありそうだ。

性格について

世間の理解を通して自己理解する上で、重要な指標になっているものの一つとして、性格の差があります。

 

私の感覚では性格は遺伝で決まっていて、時代や文化、環境に沿うように進化と淘汰を繰り返す対象となっている気がしています。

正規分布のようにはいきません。

発達障害や個人の性格は各情緒が振り切った結果。

そもそも幼少時に感情の獲得に失敗した例もある。

割合はいかがなものか?

 

湧き上がる疑問を解消するべく、他人の感情表現と判断基準をまとめていこうと思います。

何かの手掛かりになればいいなと。

情報の圧倒

気づかないうちに時間が無くなっていることはないだろうか。

 

・自分の無知、過去にぶつけられた嫌悪の表情、将来への不安が頭から離れず、暇があれば落ち込みっぱなし

・自分にほとんど関係のないゴシップを追う

・LINEを頻繁にチェックし、返事のない時間は何回もやり取りを確認する

・直面している人間関係にあれこれ悩む

・むやみに友人を誘い、飲酒などの簡易な遊びに興じる

 

私はYoutubeに知らぬうちに釘付けになっているときがある。

そのせいで習慣を守れなかったりすると、とてつもない自責の念に駆られる。なにやってんだと。

 

恐らくこれは脳死作業。適度な刺激、適度なストレスなんだと思う。意図していなくても自然と考えが及び、かつ自分自身にとっては当たり前のことではない。RPGの中盤で夢中にレベル上げをしている感覚に似ている。

 

これができる。すなわち暇。

人間の繁栄と淘汰

食料が有限である以上、種内の劣勢淘汰は収まることがない。優勢であるものが子孫を残し、繁栄を続けていった結果、進化という形で徐々に外界に適応していく。すべての生物がその優劣を種内の個体差として認識するだろう。

 

人間を含めた生物が存在する大前提は、宇宙や自然である。そもそも太陽から注ぐ紫外線、陸上や水中の温度変化に適応できてこそ、種族の存続が可能となる。その中で生き長らえる生物は例外なく種内で社会を成す。

 

四肢を自由に使える人間は、発達する脳から様々な文明文化を生み出している。自分より大きな熊や狼なども絶滅可能なほどに追い込むことができ、正に捕食社会の帝王と言える。人間の動向次第で自然生物に与える影響は恐ろしいほどに大きく、もしかしたら地球すら破壊可能かもしれない。(調べてみたら、さすがに地球の質量は大きすぎるみたい)

 

周囲の人を見れば、思考ないし感情といった判断基準が顔に表れ、声に表れ、行動にも表れ、その人の言動を大きく左右している。脳の利き手と表現すればいいのか、己が自然と持ちうる思考回路は人それぞれ全く異なる。人としての魅力は、全てその心理的な差異から来ていると言っても過言ではない。学生時代までの幼いころは面白いほどに顕著に分かれて、友好関係や学業成績にもばらつきが見られる。個々人が伸ばし続ける能力にはもちろん優劣が存在するが、年齢を重ねても一点特化という人は少ない。小学生のころから剛腕を見せつけ、その手腕のみで人生を全うするという人はほぼ皆無であって、壁や挫折があるからこそ苦しく、成長の必要が出てきて多様で楽しい。一億人以上もいる日本社会の中であっても、その中で自然でいられるように大多数の人間は揉みに揉まれる。川の流れの中で石が削れるように、老齢になればなるほどその精神は成長し、均一的になっていく。その段階でようやくすべてに納得し、何かを許し、諦めることができる。

 

人間は未熟な脳のままで生を受け、生来を掛けて精神を磨いていくが、成長の段階である程度の常識や倫理観が知らず知らずにうちに頭の中に構築される。生まれる段階で、構築のための下地があらかじめ備わっているように感じる。人間が進化の過程で築いてきたものは、人間のあるべき理想像の確定ではないだろうか。どんなことを善しとし、どんなことを悪とするのか分別がつく姿。姿かたちは数百年前から大きく変わっていないが、その精神は日々高級なものを目指して進化していると信じたい。

 

人を殺してはなぜいけないのか?規範的な人になりなさい。他人には優しくしなさい。倫理を教える道徳の授業でこういった質問がよく問われる。これは大体の場合、人類が理想とする、最終的な自身の姿を規定している。その姿がなぜいいのか?自分がされたら嫌なことは他人にはしないという分別ある姿がなぜ理想的なのか?もちろん、そういった姿が良いという方向で進化しているので、これらの質問に正確な答えはない。

 

「moral」と検索すると、道徳とはまた違ったテーマを扱っていることに気づく。同じ人間でも社会が違えば、多少の見た目はおろか理想とする姿も少し違うみたいだ。