人間の繁栄と淘汰

食料が有限である以上、種内の劣勢淘汰は収まることがない。優勢であるものが子孫を残し、繁栄を続けていった結果、進化という形で徐々に外界に適応していく。すべての生物がその優劣を種内の個体差として認識するだろう。

 

人間を含めた生物が存在する大前提は、宇宙や自然である。そもそも太陽から注ぐ紫外線、陸上や水中の温度変化に適応できてこそ、種族の存続が可能となる。その中で生き長らえる生物は例外なく種内で社会を成す。

 

四肢を自由に使える人間は、発達する脳から様々な文明文化を生み出している。自分より大きな熊や狼なども絶滅可能なほどに追い込むことができ、正に捕食社会の帝王と言える。人間の動向次第で自然生物に与える影響は恐ろしいほどに大きく、もしかしたら地球すら破壊可能かもしれない。(調べてみたら、さすがに地球の質量は大きすぎるみたい)

 

周囲の人を見れば、思考ないし感情といった判断基準が顔に表れ、声に表れ、行動にも表れ、その人の言動を大きく左右している。脳の利き手と表現すればいいのか、己が自然と持ちうる思考回路は人それぞれ全く異なる。人としての魅力は、全てその心理的な差異から来ていると言っても過言ではない。学生時代までの幼いころは面白いほどに顕著に分かれて、友好関係や学業成績にもばらつきが見られる。個々人が伸ばし続ける能力にはもちろん優劣が存在するが、年齢を重ねても一点特化という人は少ない。小学生のころから剛腕を見せつけ、その手腕のみで人生を全うするという人はほぼ皆無であって、壁や挫折があるからこそ苦しく、成長の必要が出てきて多様で楽しい。一億人以上もいる日本社会の中であっても、その中で自然でいられるように大多数の人間は揉みに揉まれる。川の流れの中で石が削れるように、老齢になればなるほどその精神は成長し、均一的になっていく。その段階でようやくすべてに納得し、何かを許し、諦めることができる。

 

人間は未熟な脳のままで生を受け、生来を掛けて精神を磨いていくが、成長の段階である程度の常識や倫理観が知らず知らずにうちに頭の中に構築される。生まれる段階で、構築のための下地があらかじめ備わっているように感じる。人間が進化の過程で築いてきたものは、人間のあるべき理想像の確定ではないだろうか。どんなことを善しとし、どんなことを悪とするのか分別がつく姿。姿かたちは数百年前から大きく変わっていないが、その精神は日々高級なものを目指して進化していると信じたい。

 

人を殺してはなぜいけないのか?規範的な人になりなさい。他人には優しくしなさい。倫理を教える道徳の授業でこういった質問がよく問われる。これは大体の場合、人類が理想とする、最終的な自身の姿を規定している。その姿がなぜいいのか?自分がされたら嫌なことは他人にはしないという分別ある姿がなぜ理想的なのか?もちろん、そういった姿が良いという方向で進化しているので、これらの質問に正確な答えはない。

 

「moral」と検索すると、道徳とはまた違ったテーマを扱っていることに気づく。同じ人間でも社会が違えば、多少の見た目はおろか理想とする姿も少し違うみたいだ。