タイプ論に関するユングの見解

MBTIへのいざない R.R.ペアマン, S.C.アルブリットン 著

 

ユングは彼の著書において性格のタイプにおける違いの記述についてこう述べている。

「すべての人は例外である。したがってすべての人に当てはまる完璧なタイプ記述は用意することができないのである。たとえそれが、いかに完全で一人以上の人に適用できようが、あるいは何千という人を適当に記述しているように見えていても、である。類似するということは、人に一面であり、もう一方に独自という一面がある。」

プライドにみる真の自己

子どもをふつうに育てたい 長山靖生 著

 

私は単に自分は自分だと思っているだけだ。だから私は「万能感」や「(理想化された)本当の自分」ではなく、今ここにいる自分を正確に把握する努力をしている自分にプライドを持っている。

思うに人間のプライドというものは、誰かとの比較によって生まれる感情ではない。それは劣等感や優越感とも関係ないもので、その人の全人格の統一性にかかわる感情である。「自分が自分であることにプライドを持つ」というのは、虚構の自分に依存しないということである。

(中略)

「自分のやっていること」しかできていないのが「今の本当の自分」で、「自分はかくありたい」と夢想している「理想としての(ありたい、あるべき)自分」は、「自分のやるべきこと」という一段高いハードルの向こうにいる。

感情は社会に100%依存する本能なのか

私の考えでは、感情は種の発展と存続のための防衛本能だと思う。

仲間を守る意識や、敵対する意識は、いかなる生物も持ちうる。

脳があり、それを慈しみや憎悪という概念で認識できるかはまた別の話だが。

 

先天的に誰でも持つ感情は複雑で、たとえ数直線上に一元的に分類できるものでも、その塩梅によって表現が変わる感情もある。しかし我々は、物心つかない頃からその複雑さを理解し、言語の習得と同時にその複雑さを表現できるようになる。赤ちゃんは人間の顔写真に一番興味を示すというが、もしかしたら感情の複雑さを捉えることを真っ先に行うよう、進化によってプログラム付けされたのかもしれない。他の生物は成長のどの段階で感情を身に付けるかは興味がある。

 

なぜ人間社会を理解しようとすると、感情に目が行くのか。考える葦というように、論理的に物事を進める理性があるのに、

才能とは

才能とは、続ける力のことを言う。

 

洗礼された技術、完成品を見て、「才能があるね。」と言う場面をよく目にするが、その中の何人が努力の過程を知っているだろうか。掛けた時間を見てきただろうか。

 

上達の速度や初期スペックは「才能」ではなく「気質」と呼びたい。

いかに気質のある人間も直ぐに投げ出してしまうようであれば、10年20年と続ける人間には及ばない。

怒りとはアイデンティティの主張

誰しもが他人にないがしろにされるのは気分のいいものではないと思う。

好きなものや入れ込んでいるものがあるのに無関心な態度をとられ、傷つくことは珍しくない。

 

その怒りの裏側に、自己がある。

本来は自己とは不完全に揺蕩うものだが、物事の好き嫌いによって他者と比較し、相対的に輪郭を確かめることができる。

 

その輪郭に興味がないと言われる。これほどの屈辱はない。

 

怒りだけでなく、感情全体かも?

知恵を愛する人間の思考

フェルマーの最終定理 サイモン・シン著より引用

 

ピュタゴラスの言葉)

人生とは国民的祝典のようなものかもしれません。ある者が賞金を目当てに、またある者は名声と栄誉を得ようとしてここに集まってきます。しかし、ここで起こることすべてを観察し、理解しようとして来る者は多くありません。同じことが人生についても言えましょう。あるものは富への愛によって動かされ、ある者は権力と支配を欲する情熱に盲目的に引きずられています。

しかしもっとも優れた人間は、人生の意味と目的とを見出すことに専心するのです。自然の神秘のヴェールを剥ごうと努力するのです。これこそ私が、知恵を愛する人と呼ぶ人間です。というのも、あらゆる点で非の打ちどころなく賢い人間などおりませんが、知恵を愛する人は、自然の神秘の鍵としての知を愛することができるからです。